ジョン・フランシス・ダッジ ホレス・エルギン・ダッジ
John Francis Dodge(1864-1920) Horace Elgin Dodge(1868-1920)
ミシガン州ナイルスで工場を経営していたダニエル・ダッジがダッジ兄弟の父親である
ダッジ兄弟は、共に、機械技術の才能があり父親の工場で働いていた
その後、ボイラー製造工場で働き、次は自転車職人となるとエバンス&ダッジという名で自転車を販売した
ダッジは、ジョンとホレスの仲の良い兄弟が設立した自動車メーカーである
ダッジ兄弟は、従業員に「砂金の兄弟」と呼ばれるほど仲がよく、ホレスが採用になっても、 兄のジョンを雇ってくれない工場では働かなかった
いつも、一緒の行動し、二人は兄弟の絆を強く意識していた
ダッジ兄弟宛に届いた手紙もbrotherと書かれていれば、Bが大文字でない手紙には返事を出さなかった
若かりし頃のダッジ兄弟は、強固で短気で粗暴であった
一時期のダッジ兄弟は、車の製造と酒場での喧嘩で特に有名であった
ジョンの悪ふざけは、バーテンに銃を突きつけ、テーブルに上らせると踊りを強要し、グラスを投げては鏡を割った
自分達の成功を祝うようにやりたい放題であった
特にひどかったのは、義足を付けた男を殴ってひどい怪我を負わせてしましったことだ
とにかく、当時のダッジ兄弟は手のつけられない無法者であった
1901年にダッジ兄弟は、ランサム・E・オールズが作るオールズモービルの変速機製造を始めた
自動車産業に足を踏み入れたダッジ兄弟は、150人の従業員と最初の2年間で3,000の変速機を生産した
仕事に没頭した二人は、毎日昼夜を問わず働き、食事も豪快に食べては、工場のベンチで少しの仮眠をとるといった生活であった
わずかな休日は家族と過ごす日々が続いた
そして、1903年二人の能力を認めたヘンリー・フォードから、エンジン、変速機、シャシー、アクセルの製造委託の契約を受けた
フォードの工場では、ワゴン・メーカーから買った車体にダッジの部品を据えつける作業がおこなわれていた
実は、フォードの工場での役目は、自動車の組立てという車にフォードの名誉を与えることだけだった
1904年のフォード自動車の生産額は約116万ドルであったが、フォードの工場には、1万ドル相当の機械装置しかなかった
T型フォード製造のために重い部品をせっせと持ち上げていたのは、全てダッジだった
ダッジ兄弟の業績は、歴史上フォードの陰に隠れてしまったかもしれないが、報酬としては十分な金額が払われた
1905年のフォードとの契約では、株式投資による1日800ドルという利益を得た
しかし、1913年になるとダッジ兄弟は自分達で自動車を製造すれば、もっとうまくいくと考え、フォードとの契約を打ち切った
そして、ハムトラムクにある工場を2倍に拡張すると自動車メーカーに転進した
ダッジ兄弟の車は以前の自動馬車といった趣の車と違いすべてが鉄で作られた革新的なものであった
また、その優れたスタイルと品質、信頼性への評価は、ダッジ車をたちまちのうちに大ヒットへと押し上げた
当時ダッジ兄弟の事業はとてもユニークなものであった
初期のダッジは、他のメーカーのように何年かごとにモデル・チェンジするのではなく、技術革新があるごとに継続的に車を改良していた
独自の発想は、交換部品をお客さんに売り、絶えず車をグレードアップできる仕組みとなって現れた
この独自の発想は、フォードにとってやっかいな革新であった
自動車産業自体を牛耳ろうとしていたフォードにとって、このかつての忠実な部品メーカーであったダッジの仕組みは裏切りのような行為であった
フォードの株を保有するダッジ兄弟は、株の配当を事業の資金に当てていたが、誇大妄想にとりつかれたフォードは、もうダッジ兄弟に配当を支払わないと宣言した
突然の宣言に配当なしでは資金繰りに困るダッジ兄弟は、配当の支払を求めてフォードを訴えることにした
幸いにもダッジ兄弟はこの訴訟に勝つことができたが、すぐにまたフォードと揉めることになる
フォードは大戦前夜のドイツ和平交渉に乗り出したが、第一次世界大戦にはウィルソン大統領の戦争支援の要請を受けてダッジ兄弟は、利益なしに軍に協力した
かって銃製造の経験のあるダッジ兄弟は4ヶ月で軍需工場を建設、129の装備を備え、発射後に後座する仕組みの大砲を製造した
戦争が終わるとダッジ兄弟は自動車製造に戻り、1920年に兄弟が亡くなるまでにはアメリカで4番目の自動車メーカーになっていた
ダッジ兄弟の私生活もビジネスと同様にドラマチックであったが、兄のジョンと弟のホレスの結婚生活は対象的であった
ダッジ兄弟は時を同じくして、28歳で結婚した
兄のジョンは、裁縫師であるアイビー・ホーキンスと結婚、ウィニフレッド、ホーキンス、ジョン・デュバルと3人の子を授かった
ジョン一家の悲劇の始まりは、1901年アイビーが肺結核で亡くなることに端を発する
2年後、ジョンは、愛してはいなかったがイサベレ・スミスと再婚した
アンとイサベレは奇しくも誕生日が一緒であり、イサベレは、弟ホレスの妻アンの親友であった
イサベレとの結婚は、公にされず、結婚を隠してジョンは、秘書のマチルダ・ロウシュとの不倫をつづけていた
他人に、家政婦と紹介されていたイサベレの不幸な4年間が過ぎると、ジョンはイサベレと離婚しマチルダと再婚した
ジョンとマチルダの間には、最初2人の女の子、次に男の子が生まれた
アイビーの時と同じような家族を持ったが、それが最初の結婚から20年が経っていた
マチルダとの結婚が公になるまでマチルダの両親は、知らされておらず、大変憤慨した
ジョンの母であるマリアはそのことに胸を痛めており、さらに病弱となったマリアはジョンが提供する豪邸に住むことを拒んだ
マリアは、1907年に死去するまでイザベラの介護に頼っており、最後まで妹たちと暮らすことを選択した
一方、マリアとの関係を修復しようと努めたマチルダであったが、元秘書が世界有数の富豪の妻になるには、困難を極めた
秘書としてのマチルダは、大変優秀で整理整頓を得意とし、世の上司にとっては、理想の秘書であった
そんなマチルダも伯爵夫人になるべく、ピアノ、発声法、フランス語などを学んだがうまくいかなかったようだ
ホレス・ダッジの私生活はジョン・ダッジに比べると落ち着いたものだった
妻のアンナ・トムソンは、スコットランド人、帆船作り職人の娘であった
1896年、ホレスとアンナは、昼食時の一時間のうちにカナダのオンタリオ州ウィンザーにフェリーでいき、そこで挙式した
結婚を簡単に済ませるとホレスは、いつもの仕事に戻り、アンナは自宅でピアノを教えた
あっけなく始まった結婚生活であったが、ホレス・ジュニア、デルフィンと2人の子が生まれ、その後も幸福な生活が長く続いた
ホレス夫妻の私生活は、ジョンに比べると豊かで落ち着いた余暇を楽しんんでいた
ホレスが趣味としていたのは、デトロイトを含むウエィン郡の保安官代理に任命された仕事であった
ホレスは、危険で困難な役回りも決して投げ出さず、盗賊との銃撃戦を楽しみにハリキッテいた
また、ホレスは、ただ捕まえるだけでなく、捕まえた刑務所の服役者にクリスマスにはプレゼントを与えたり、 仲良くなった逮捕者に仕事を紹介したりした
他にも趣味として、馬の代わりに車でポロをしたり、最も愛した趣味は音楽であった
ホレスとアンナはデトロイトの音楽界を大変よく支援した
ミシガン湖から、わざわざ電車を手配してはデトロイトで行われるコンサートを見に行った
アンナは、デトロイト・シンフォニー・オーケストラの設立に1,000ドルを寄付し、オーケストラの経営が大変になるとホレスが、買い取って支援した
ホレス・オーナーのおかげで楽団は、立ち直り、世界一流の地位を今も保っている
魅力的なアンナは、社交界でも中心的な人物で、シンフォニー開演の夜、アンナが会場に現れるとカメラマン達はこぞってフラッシュを焚いた
アンナ自身、音楽家としてもすばらしく、独学でピアノやバイオリンと格闘していたホレスを魅了した
生まれが良くないと社交界から冷たくあしらわれていたダッジ兄弟であったが、ホレスの方はローズテラスという洒落た邸宅を湖のほとりに建て、一方でジョンは、110部屋もある豪邸を400万ドル近くかけて建設した
社交界と水の合わなかったジョンには、田舎の生活の方が合っていた
ミシガン州ロチェスターの農場に家を建て住み、すでに和解していたマチルダの両親を召使として雇った
また、ジョンは政治の世界にも首を突っ込み、1916年には、共和党総会の代表にもなった
18世紀末の初代財務長官のアレクサンダー・ハミルトンの研究では権威になった
一族は、ダッジ兄弟の子供達に泣かされた
ジョンは、息子であるデュバルを勘当、テキサスに追いやった
ホレス・ジュニアは、5回の不幸な結婚を繰り返し、始末におえない男とされた
ダッジ兄弟の死も同時に訪れた
生涯一緒で死ぬ時もインフルエンザの大流行で1920年に亡くなった
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