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ウォルター・パーシー・クライスラー
Walter Percy Chrysler(1875-1940)
クライスラー一家はもともとはドイツの出身でマサチューセッツ州プリマスに移住してきた
その後はニューヨークに居を移した
後の車に付けられる「プリマス」「クライスラー・ニューヨーカー」の由来はここから来ている
ウォルターは男2人、女2人、4人兄弟の3番目に生まれた
少年時代のウォルターは機関車の機関手である父の影響を受けて育った
父ハンクは時々、何百トンもの貨車を引っ張る巨大な勇ましい機関車にウォルターを乗せ轟音を立てながら平原を走った
ウォルターは機関車に乗り込むと石炭をくべ、汽笛を鳴らしたり軸受けに油を差したり、当事の子供達の憧れの仕事をやらせてもらえた
父のおかげでウォルターは生涯、機関車に関心をもつことになる
18歳の時には何もないところから70cmの動く蒸気機関車の模型を作り、鉄の破片を見つけては穴を開け、切ってはやすりを掛けたていた
ウォルター・クライスラーは鉄を見るたびに機関車のことを考え続けていた
クライスラーは天才的な機械技術者でありながら繊細な芸術家のような面も持ち合わせていた
また、アメリカ自動車会社の大立者として大自動車会社の経営に卓越した才能を発揮し成功した
こんなクライスラーは自動車業界の中では特に異色な存在であった
多彩なクライスラーは一人の人間の一生の中では到底味わえない様な多面的な生活を送り、地域、時代を越えて活躍した
ウォルターの少年時代はカンザス州エリスにクライスラー一家で住んでいた
その頃は部隊とインディアンとの戦闘が絶えずインディアンの襲撃に怯えていた
そんな時代から現代文明の夜明けとなる時代をクライスラーが生きるとは想像にすらできなかった
やがて、クライスラーは今日の自動車設計の基礎を築きニューヨークで一番美しい自社ビルを世に残すことになる
ウォルター自身も自分の子供時代と同じように男女2人づつの子をもつ父親になった
そして、ウォルター自身と同じく3番目のウォルター・ジュニアがクライスラー社の後継者となる
少年時代のウォルター・クライスラーは好奇心の塊で到底、エリスの学校だけでは満足いかなかった
1880年代のウォルター・クライスラーは「サイエンティフィック・アメリカン」という雑誌に数多くの読者投稿を出しており、当時の保存版には数多くの質問が残っている
ウォルター・クライスラーは時給5セントの整備工場見習いとしての職業生活を始めるとその後数年間に渡り、貨車に乗って移動しながら職を変えていった
渡り労働者のように貨車で移動しながらもクライスラーは雇い主に対しては、やる気、誠実さ、技術能力を示してすぐに気に入られた
この時期、漂浪しながらもウォルター・クライスラーはエリスの商人の娘、デラ・フォーカーと文通を続けており1901年にはエリス・メソジスト教会で結婚式を挙げた
新婚生活はソルトレイク・シティで始めることになった
ウォルター・クライスラーが初めて自動車を手に入れたのは1908年のことだった
案の上、「ロコモービル」という機関車(ロコモーティブ)に似た名前のツーリング・カーに魅入られた
妻のデラは5000ドル以上もする自動車を買うことには反対だった
そのことが家計を困窮に追い込むことになるのは間違いないと感じていたからだ
ウォルター・クライスラーがこの車を買った目的は明らかだった
当初3ヶ月は路上を走ることはなく誰も車に乗ることはなかった
それはウォルター・クライスラーの目的が分解してどのよに動くのかを確認するためだったからだ
しかし、確認が終われば車を元通りにし家族で時折、遠出にも出かけた
そのころのウォルター・クライスラーは大西部鉄道の動力監督になっており、アイオワ州オールウェインに住んでいた
ほとんど家族と接する時間はなく、ウォルターは路上で働いていた
その後、クライスラー一家はピッツバーグに移った
ウォルターはアメリカン・ロコモーティブ・カンパニーの部長になったが、すぐにGM社長のチャーリー・ナッシュに引き抜かれビュイック部門の立て直しを命じられた
1913年頃のフォードは1日に1000台を生産していたがビュイックは45台がやっとだった
1880年代の四輪馬車を作っていた方法で自動車を生産していた古いビュイックの労働者に対して、天才肌のクライスラーは生産の無駄を省き本来あるべき生産方法を導入して会社を立て直した
大成功に気を良くしたウォルター・クライスラーは賃上げを要求しナッシュとの激しいやり取りの末、以前の2倍25.000ドルをせしめた
そして、次の年にも2倍の50.000ドルの賃金をナッシュに要求するとこれも実現してしまった
その後、クライスラーはGMの副社長になったが45歳にして人生の目的を全て達成してしまったと感じていた
ウォルター・クライスラーは引退を決めヨーロッパに移住することにした
平穏な暮らしの中、デラは趣味の音楽に没頭していたがその生活も長くは続かなかった
ジョン・ノース・ウィリス社の要請を受けたクライスラーはアメリカに戻ると倒産の危機にあったこの会社を建て直した
次に救ったのはジョナサン・マックスウェルという会社である
その後この会社はクライスラー・コーポレーションと名を変えた
クライスラーはマックスウェル一族を追い出すと高級車インペリアルの開発に取り掛かった
3年後にはダッジ・モーター社をダッジ兄弟の未亡人から買い受けた
私生活でのウォルターは妻デラと同じく音楽を趣味とした
但し、妻デラはオペラを愛したのに対しウォルターは単調な音楽を好んだ
エリスの町にいた時はピアノのレッスンを受けていた
行く場所ごとに地方のマーチングアバンドに参加して太鼓やチューバ、クラリネットなどを演奏した
この車と芸術への関心が高い人物は次々と自動車業界で功績を残していったが他の自動車王とはあきらかに違っていた
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