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ルイ・ジョセフ・シボレー
Louis Joseph Chevrolet(1878-1941)
スイス生まれのルイ・ジョセフ・シボレーは時計職人の父ジョセフの子として父の血を受け継いだ
シボレーは父の機械についての才能と同様に10代前半にしてワイン製造に使用するポンプを発明した
暇があれば自転車レースに参加し、28ものトロフィーを棚に飾っていた
また、自転車の修理、製作もしていた
1900年、シボレーは急速に発展する自動車産業で自分の腕を磨き商売を始めようとアメリカにやってきた
当初、シボレーは生活のためモントリオールでお抱え運転手をした
シボレーは扱いにくい従業員であったこともあり自動車産業での商売は思ったほどうまくいかなかった
次から次に会社を変わり18年間で18の自動車会社を転々とした
本来、自転車レーサーであったシボレーは自動車レースも得意としていた
そんなシボレーを一躍有名にしたのは1マイルを52.8秒で走り歴史的に有名なレーサー、バーニー・オールドフィールドを破ったことだった
1マイル=1.6km、1905年当時、時速113キロというスピードは驚異的であった
それから何年もの間、シボレーは国内の自動車レースで数々の記録を打ち立てた
棚のトロフィーはさらに増え続けていった
シボレーは1911年の第1回インディ500にも出場した
優勝したのはレイ・ハロウンだがシボレーはハロウンよりも時速30キロも速い時速150キロを出していた
途中、シボレーが乗っていたビュイック社製の車が故障しなければシボレーはインディ500の初代王者になっていたに違いない
その後、シボレーはウイル・デュランという男と共同で働き、デュランの資金で自動車製造を始めた
6ヶ月間、レースと同じくらい懸命に働き、1911年11月にシボレーは高品質な最初の1台をデトロイトのグランド通りに送り出した
当時フォードのモデルTが490ドルであったの対しシボレー車は2,150ドルという高値で売られた
完璧主義者のシボレーが作るシボレー車は高価であったが、後に1億3000万台を超える台数を世に送り出すことになる
しばらくしてシボレーは満足いく車を設計したことで大量生産をデュランにまかせて妻スザンヌと共にフランスへ長期休暇に出かけた
その間にデュランはフォードのモデルT生産工場の向かいに16万平方mの土地を購入した
いたずら好きなデュランは将来のシボレー・モーター・カンパニーの工場用地と書かれた目立つ看板を掲げて、ライバルが怒り狂う様子を見て喜んだ
また、看板を最初に見たヘンリー・フォードの反応を想像することはとても愉快なことだった
しかし、その後労働争議が起こり、工場の計画はミシガン州フリントに変更となってしまった
生産はすぐに開始されたが、デュランがフォードに対抗して、計画の質を落とし低価格で生産しようとしたため休暇から戻って知ったシボレーは激怒した
シボレーは自分の家族の名前に誇りを持っていたがフランス語で「ミルクを作るヤギ」という意味の名前を車につけることは嫌がった
しかし、デュランはシボレーのレースでの名声を最大限利用しようとしてシボレーとぶつかった
シボレーはタバコを口にしながら憤懣をまき散らし、デュランはシボレーのタバコの習慣が気に入らず毒づいた
結局、シボレーは後にゼネラル・モーターズと呼ばれるデュランの会社を去ることになった
シボレーはインディアナポリスに移り住み、フロンテナックという名前で車を製造し始めた
今度のシボレーの事業の支援者は自転車レースをしていた頃の旧友アルバート・チャンピオンだったがこの関係も長くは続かなかった
アルバートは陶製のスパーク・プラグを発明して富と名声を得ていたが、ゼネラル・モーターズにもスパーク・プラグを供給していた
このことを知ったシボレーは怒りアルバートを殴りつけた
シボレーの殺意を感じたアルバートはシボレーの元を去っていった
その後もシボレーはアルバートの支援を失いながらもレース車ではインディ500で連勝するなど高品質なフロンテナックの生産を続けていた
しかしシボレーはそれだけでは満足できず、新事業を弟アルテュールとグレン・マーチンという男と共同で始めることにした
当時、グレン・マーチンはフォードの販売代理店をしていたが後にロッキード・マーチンとなる航空機産業にも参入していた
シボレー兄弟は主要企業であるマーチン社にシェボレアという飛行機用エンジンを供給していた
しかし、ここでも血の気の多いシボレーは弟アルテュールとデザインの功績を巡って喧嘩となり共同事業は1926年に終わってしまった
シボレーはやっとここにきて共同事業の難しさに気づたようだ
懲りたシボレーはスタッツ自動車で働き、モーターボートのレースをして余暇を楽しんだ
一方、弟アルテュールはルイジアナ州スライデル造船所に職を得たが、兄と別れた後、すぐに自殺してしまった
晩年のシボレーは穏やかなものだった
シボレーはフロリダで、しばらく妻スザンヌとともに隠居生活を送っていたがデトロイトに舞い戻るとシボレーの工場で工員として働いた
金が必要になったのか、何かまたしたくなったのかは不明だが高校中退の労働者と一緒に働いた
過去にはレーサーとしての名声を得た、世界で最も早く自分の名を冠した車を作った男は会社の創業者であることも知られずに1941年、脳出血を患い亡くなった
そして、シボレーがこの世を去ったことに気が付いた人はほとんどいなかった
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