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David Dunbar Buick
デビッド・ダンバー・ビュイック(1854-1929)
デビッド・ビュイックほど悲劇的な生涯もないかもしれない
1854年9月17日生まれのデビッド・ビュイックは、スコットランドの北海海岸線にあるアーブロースという歴史ある小さな村で2歳まですごした
父親のアレクサンダー・ビュイックは、わずか2歳のデビッド・ビュイックと家族でアメリカに移住した
少年になったデビッド・ビュイックは、みんなと同じようにデトロイト・フリー・プレスの新聞少年として働いた
農場では季節労働者として働き、その後フラワー・ブラザーズ・マシンショップという会社に勤めた
フラワー・ブラザーズ・マシンショップは、自動車産業先駆者達の育ての親ともいうべき会社であった
ヘンリー・フォードも後にフラワー・ブラザーズ・マシンショップで働いている
ビュイックが、ウィリアム・シャーウッドと出合ったのはフラワー・ブラザーズ・マシンショップだった
ビュイックはシャーウッドとともに配管の事業を始めることになった
そこで、日用品を扱う製造業者にとって、画期的な出来事として、デトロイトの工務店で、ビュイックはエナメルを金属に接着させるプロセスを開発した
風呂桶や洗面器、キッチンの流し台、ポットやフライパン、エナメル加工の電気器具などすべてにおいてビュイックの開発した技術が使われている
実はこの技術は、既にヨーロッパで発明されていたが、ビュイックはまったく別に発明したことで、アメリカでの特許を取得していた
ビュイックと息子のトムは、1899年に、この特許を後にアメリカン・スタンダード社となる企業に10万ドルで売却した
ご存知のとおり、今日のアメリカの大半のトイレで、アメリカン・スタンダード社のロゴを目にする
当時の資産家やメカ好きは、自動車製造をはじめていた
同じように内燃機関のとりこになったビュイックも特許売却の利益を元に、自動車の製造に取り掛かった
最初の車は、現在のデトロイト・ルネッサンス・センターのある場所で作られた
ビュイックは自動車を大量生産するために工場建設資金が必要だった
そこで、資金をかき集めようとブリオーシという男や、堅実な車作りのジョナサン・マックスウエルなどと交渉を重ねた
資金獲得に奔走したビュイックは、獲得した資金を元にフリントで自動車の製造を開始した
そして、1904年7月にビュイック1号ができあがると息子のトムは、デトロイトへとドライブに出かけた
ドライブは好調で時速6マイル(10キロ)を超えるスピードで風を切るように走った
会社の方はゆっくりとしたスピ−ドで成長していった
初年度は、従業員25人で6台の新車を生産したに過ぎないが時間の経過とともに会社は繁栄していった
その後、フリント・ワゴン・ワークスがビュイックの資産を買収し、さらに工場を建設することになった
デビッド・ビュイックは、売却代金を現金ではなく、ビュイック社の約束手形で受け取っていた
しかし、ここに大きな落とし穴が待っていた
約束手形は毎年書き換えなければならなかったはずである
1908年ビュイックは人生最大の教訓を学ぶことになる
ビュイックは、毎年の書き換えだと思って書類にサインしたが、あろう事か事務員のミスで会社の権利を全て失うことになった
何が書いてあったのか、「サインする書類はよく読め」という教訓である
たった一筆でビュイックは絶望の淵に追い込まれた
その後もビュイックは何度も権利を取り戻そうとしたが、うまくいかなかった
失意のビュイックはそれでも、事業をあきらめず、カルフォルニアに行き、金鉱を買い、石油会社を設立したが、どちらの事業もうまくいかなかった
その後もデトロイトに戻ると息子と二人で気化器の製造を始めたが失敗
さらに、ダンバーという車の共同事業を行ったが失敗
フロリダに行っては、不動産会社を経営したが、これも失敗
最終的には、ビュイックは、デトロイトの貿易学校の事務員として生涯を終えたのであった
1929年3月5日、74歳でデビッド・ダンバー・ビュイックは結腸癌の合併症でハーパーデトロイト病院で亡くなった
ビュイックは才能あふれる発明家であり、働き者である
本来なら、ヘンリー・フォードやダッジ兄弟と同じように華やか人生を送ってもよかったはずである
ビュイックは、当時何百とあった自動車メーカーの中で、今日まで生き残ったメーカーの一つである
彼が亡くなった後、何の遺産もない妻キャサリンや4人の子供達を思うと悲しい話しである
そして、貧困の中で生涯を終えたビュイックの悲しみは、ビュイック車のオーナーがビュイックの名前、ましてビュイックの悲劇など何も知らないことかもしれない
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